▼04a
「永遠の学生」
の呼び名も高き臥牀庵の通う「映画美学校」の上映会のために渋谷ユーロスペースへ。
チャリで
行ってみる。新宿区に引っ越してきてからこっち「渋谷くらいならチャリで行けるよね」と思いつつもなかなか実行する機会がなかったのだが、ようやくその機会が訪れたのだった。
ルートは自宅のある柏木村*1 → 新宿中央公園東側 → 西参道 → NHK放送センタ西まわり → 公園通り坂上 → 渋谷駅前 → 246横断。上演時間は21:10。どのくらいかかるか不明だったため十分な余裕をみて 20:05ごろ家をでたのだが……
柏木村の自宅から公園通り坂上までなんと 15分。正直、チャリをなめてました。
もちろんそこからは連休初日という事もあってか大混雑の渋谷駅前を通過するわけで、結局ユーロにたどり着いたのは 20:40ごろ。こりゃ駅前を通らずに道玄坂上方面を迂回したほうが早かっただろーね。人の多い窪地に侵入するときはよっくルートを選ばねば*2。
■04b
で、映画そのものは
「赤い芝生」(脚本監督=梅内美恵子/16mm/38分カラー)
うーん、これには非常にがっかり。オープニングの草いきれの感触や主人公の女の子が草の中で泣くところなんかは触感的でちょっと新鮮に感じたのだけれども、俳優の演技を含め技巧的にも苦しいところが目立ったし、前半ではそもそも登場人物が何人(なにじん、じゃないですよ)なのかすらも判らなかった。第一「ゲイ」という設定にした意図も、赤いスプレイの意味もまったく判らなかったのだ。道路のシミを測るシーン、ゲイと言う設定、ラジオを聞くと言う行為、それらに対しなんらかの思い入れが監督にはあるのかもしれないのだけれども、意味も見えてこず、それ自体が単純に面白いわけでもない(もちろん面白くなるように撮ればいいのだが)文物に対する思い入れは、単なる思い込みとしてしか観客には認識されない。
例えばジャズだとか、ゲイだとか、ピアスだとか、死体写真だとか、そういったフェティシュは、それ単体では「ここにはないなにか」に憧れる田舎の中学生しかだませない、と思う。「ゲイ」という文物が持っている(かのように見える)アウラに頼ろう、という気分がもしあったのだとしたら、それは多いに反省すべきではないか?
あと、あれだ、あれ。人を埋めて隠し通せる程の穴を人力で掘るのは、実はすんげい重労働じゃよ?
「夕陽」(脚本監督=小泉恵美子/16mm/20分カラー)
なんだか演技がうまいな、と思ったら子役さんでしたか(名前から類推……いや、最近の子供は判らんぞ)? まぁ素人だったとしても大人よりガキの方がキャメラの前ではナチュラルな動きをするのだけれども。
なんというか素直なプチロードムーヴィ。このくらいの尺にはちょうどの題材だと思うし、実際素直に楽しめました。
例えば、持ち上げてもらいたがる久美子をもう少々派手にうざったがって見せるだとか、スーパで消えた久美子を探すシーンで、子供特有の「事態は決して重要じゃないのだ、そうにちがいない」みたく自分に無茶なことをいい聞かせ安心しようと試みる葛藤の表現だとか、帰りのバスに乗る前にもう少しためらいをみせるとかの感情表現をもう少し盛り込んだほうが良かった気もするのだが、そうするとラストカットの妙にいい味を出しているそっけない緊張感が損なわれるような気がするのも事実。これは微妙かも。
俺もこのくらいの娘っ子と遊びたいのう。
*1 昔の地名で出ています
*2 昔、鎌倉で酷い目にあったことがある。
|